<成功の理由と運命の関係>
松下さん自身は自分の成功の理由をどう考えていたかと言う と、 “自分は、体が弱く、財産が無く、学問が無かったから成功できた”、と言っている。この三つは松下さんにとって変えることのできない運命であった。それなのに、この三つが私の成功の理由だと言うのである。逆説的に聞こえるかもしれないが、そうではないことを次の様に説明する。
「私は生れつき、体が弱かったがために、人に頼んで仕事をしてもらうことをおぼえた。また若い人たちに思いきって仕事を任せることもできた、というより、そうせざるを得なかった。もし自分が頑健で、仕事を部下に任せず、何でも自分でやっていたならば、人も育たず、会社もここまで大きくなってはいなかっただろう、と言うのである。
次に「学歴がなかったので、常に人の教えを乞うこと ができた」「言い換えると、知識のある人の知識を活用した」と 言っている。活用するとは軍師として利用することで、軍師の言うことを大将がそのまま聞くのなら大将はいらないと言っていた。
財産がなかったために堅実経営でやってきた。事業を始めてからも、「お金がないから一歩一歩着実に計画を立てて、資金のダム、信用のダム、設備のダムといった小さなダムを社内にいくつも作り、銀行さんが与えてくれる与信の範囲内で融資を受けて、事業をやってきた」と。
実際に昭和二年の金融恐慌でメイン銀行二社が共に倒産した時も、まだ取引をしていなかった住友銀行から「融資をしなくてよいか」、と尋ねられて、それを断っている。昭和四年の世界恐慌で売り上げが半減した時も、融資を受けていない。
昭和二年の金融恐慌の時に、住友の若い銀行員があまりに熱心に取引を進めるので、取引開始をすることの条件として。「将来融資をお願いすることがあれば、無条件で二万円融資をすると約束してもらえますか」と与信の範囲を聞いている。それを聞いた住友の支店長が、住友銀行では取引前に融資を約束するという前例はありません、その前に本社の融資担当の役員と面談をしてほしいと言ったらしい。
それに対しては、「その必要はありません。役員に会っても同じことを聞くでしょう」、と答えている。困った支店長は、自分の退職金をこの取引に掛ける、と役員に訴え、“それほど言うのなら”、ということで決済が降りた、ということだ。こういう積み重ねが信用のダムになると言えるだろう。
自分の力の範囲で見事に克服して見せれば、信用のダム(与信)は大きくなるのだ。「おかげで自分は、不況でも好況でも一貫して自己のペ-スで活動することができた」と述べている。
昭和7年に250年計画を発表し、そのための工場群を守口・門真地区に建設すると発表した時は、周辺にいた多くの人が反対した。その理由は、守口・門真がレンコン畑の湿地帯だったのと、大阪から見て北東の方向で鬼門に当たったからだ。そういう人に対して松下さんは「これが鬼門であれば日本列島そのものが有史以来、南西から北東の鬼門の方向に向いている。いかに方向が悪くも地質が良く無くても、経営よろしきを得れば立派に成功することを世間様に知らせる絶好の機会だ、断じて成功させよう!」と叫んでいる。
建設の費用はすべて住友銀行の融資を受けており、落成披露の案内文にも、その金額を詳しく書いている。これがまた大きな信用を生むのだ。最大の銀行が全額融資して応援していることを知ってもらえるからだ。
もう一つ昭和4年の世界恐慌の時の裏話を紹介しておこう。
売り上げがピタッと止まり、生産半減、従業員の解雇も、やむおえなしと井植専務(奥さんの弟で戦後三洋電機を創設)以下の幹部が決意をし、病床の所主にその旨を報告に行った。
松下さんは病床から起き上がり、“何を言うか、つい先日、綱領(「営利と社会正義の調和に念慮し、国家産業の発達を図り、社会生活の改善と向上に寄与せんことを期す」)を制定した会社が経営が出来ないから人を解雇するようで、社会正義が貫けるか。生産は半減し、現場は半日休業とするが、働いてもらった分の給料は支払う。その代わり店員(月給社員)は休日返上で商品を売ってこい、売って売って売りまくれ!”と命じている。
その結果、三ケ月で在庫はゼロとなり、平常の生産に戻している。勿論その裏付けとなる商品(アイロンとコタツが商工省国民推薦商品になった)を中尾哲二郎という関東大震災で流れてきた技術者に作らせていたから出来た決断である。東京時代の中尾さんは金属の職人であった、その若い中尾さんに“君ならできる。きっとできる。出来ると思ってやれ”と督促し、コタツの次にはNHK受信機(ラジオのこと)コンクールに応募させて一等賞をとらせている。この頃までは松下さん自身が特許を自ら申請して個人で100件取得している。全社の特許番付表を張り出し、人事や経理の社員にも特許を出させている。
しかし中尾さんが元の主人から会社再建のために帰ってほしいと頼まれて東京に戻ってからは戻った先の浜野製作所を見守り続け、下請けとして会社ごと引き受けて中尾さんに再入社してもらい、それからは自らか特許を取らなくなっている。完全に任せたのだ。
このように普通の人が自分では気づかない天分を見つけ出し、引き伸ばすのが松下さんの最大の人間力だった。言い換えれば個性の強い自分の意思を持つ人を大切にした。
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