私自身との出会いを求めて

若き日の悩み

私は高校年と大学一年の夏休みに北海道を一人旅し、そこで幾つかの出会いが生まれ、私の原体験・原風景になっている。

高校三年生は就職か進学かで誰もが迷う時だ。ちまたでは船木一夫の「僕ら高校三年生」という歌が毎日のように流れていた。私は父の仕事の関係で大阪から東京に引っ越し、たまたま進学オンリーの都立高校に転入したため、将来の夢もなく、ただひたすら一流大学を目指しているクラス仲間の神経が分からなかった。それでも、クラスには親しくはしてなかったが尊敬する男が一人いた。かれは抜群の成績で三年になっても野球部で熱心に練習をしており人生に余裕を持っていた。後に東大の学長になる男だ。私が「夏休みを北海道で過ごす」と言っているのを誰かから聞いたのだろう。昼飯を食べ行った時に私に、“なぜ今頃北海道に行くんだ、お前は受験勉強から逃げようとしてるのか”と聞いてきた。私は“そっちこそ、自分の将来の夢も考えず、有名大学に入り高級官僚になろうとしてのだろう。俺は北海道で農業をやるか僻地の中学教師になる方がいいか、迷っているので実際に行ってみて、体で感じたいのだ”と答えている。そして夏休みと同時に北海道に出かけている。

北海道での出会い

私は北海道に行き、札幌のバスターミナルで、さてどこに行こうか、と考えていると30歳ぐらいの女性が声をかけてくれた。“どこに行きたいの”、と。私は、どこと言う当てはなかったが、“パイロットファームをしている農家を見学し体験したい”と言うと、私はここから30分ほど江別方向に行った野幌で酪農高校の学食で栄養士をしている。酪農高校の五十嵐と言う先生が、学生相手に下宿屋をしており、今なら学生は帰省しているので、部屋が空いていると思う、と言って、そのままその先生の家まで連れて行ってくれた。

そこでもちろん受験勉強もしていたが、大学生と話をする機会が生まれた。その人は、今パイロットファームは夢敗れて止めていく人がいかに多いか、農業がいかに厳しいかを語り、スタインベックの「怒りのブドウ」と言う本を貸してくれた。これは大恐慌次世代のアメリカの季節労働者がいかに厳しい現実と戦ったかを紹介した内容でノーベル文学賞を受賞している。それを読んで、いかに自分が甘いかを知り、何をすきかを考えるために大学に行こうと決心している。彫刻家の高村幸太郎の「道程」の中の言葉、「僕の前には道はない,僕の後ろに道ができる、ああ自然よ父よ、僕を独り立ちさせた広大な自然よ‥‥」を口ずさむ自分をセルフタイマーで撮った写真と牧草の中に座る写真が残っている。

これが私の原風景だ。たまたま五十嵐さんの畑には開拓時代に切られた木の切り株があり、近くの森には今や全土で数十羽に減っているシマフクロウが鳴いていた時代だ。

 今の野幌は酪農大学ができ、北海道博物館ができ、開拓記念館もでき、巨大な文教地区になっている。そしてそれから年経った大学一年の夏休みには、アルバイトで貯めたお金と、一ヶ月間使える国鉄(国鉄バスも使えて5000円)の周遊切符と寝袋を持って東北の障害者施設に泊めてもらった上で、下北半島の尻屋岬を経て青函連絡船で北海道に渡り、根室の花咲半島の牧場や野付半島の漁師の番屋などに泊めてもらい礼文島まで行っている。この二回の旅で無限に広がる海と空が私の心の中に原風景として刷り込まれていった。

 

 

下の写真は青森の下北半島から北海道に渡った時のものだ。大間駅前と仏ケ浦への船、尻屋崎の放牧風景、襟裳岬、礼文島二枚