【松下さんとの出会い】

 若き日の原風景との出会いは、北海道への一人旅から生まれた、と紹介したが、私の次の出会いは、生き方の師匠を求めていた私と松下さんとの出会いだ。

 

 北海道から帰ってからは大学入試に専念し慶応大学に入り、図書館と古本屋にしか行かないまじめさだった。四年間勉強しても答は得られず、大学に残ることを前提にした特別奨学生(小泉奨学生)となって大学院にまで行った。しかし当時は学園紛争の最末期で学内で暴力行為も横行し、全学連が塾監局(大学の事務局)を占拠して寝泊まりし、カリキュラムも定まらず、二年間ほとんど授業もできなかった。教授会も二つに分かれ、学長は全くりーダーシップ能力がない。こんなところは嫌だ、しっかりしたリーダーのもとで教育か出版の仕事をしたいと思っていた。

 

<松下さんの面接試験>

 そんなときに松下幸之助という人が新しい事業をしようとしていると、知り合いから教えてもらった。松下幸之助という人を今の人は知らないかもしれない。松下電器(パナソニック)を創設した人だ。小学校を四年生で中退し、火鉢屋と自転車屋に奉公し、15歳でそこを飛び出し電灯会社(今の関西電力)の電灯取り付け工事人をしていた時に新型ソケットを考案し、会社に提案するが受け入れられず22歳で独立している。そんな経歴を持つ人だ。

 私がお会いした時は73歳(1968年)だったが、まだお元気で世界最大の弱電会社のオーナーになっていた。私は23歳。私と松下さんはちょうど50歳違う。

 たまたま、この年が松下電器の創業50周年の年で、これを契機に松下電器の会長に退き、PHP研究所を再発足(本当は終戦の翌年の昭和21年に発足)させ、それに専念すると宣言していることを伝え聞いたのだ。その準備のため、京都駅前に研究所のビルを建設中だとも聞いていた。

 そこが何を研究しているかは知らなかったが、社会啓蒙団体として機関誌PHP誌を発刊していることは教わっていたので、教育と出版が一番やりたかった私は、東京から京都に出かけている。所長代行の錦さんがあってくれたが、「うちは所員を募集していない。君に入ってもらわなくともちっとも困らない」と言われてしまった。それではこっちが困りますと言うと、“うちに入って何をやりたいのだ”と聞かれた。そこで“私は法哲学の勉強をしてきました。それは体系的な学問で、その根本に人間に意思の自由があるかどうか、ということがあり、それが私の研究テーマです。ついては松下さんの思想の体系化がしたい”と言うと、あきれていた。頭がおかしいと思ったのかもしれない。“松下さんの思想を体系化できると思っているのか、それは不可能だ。あの人は相手に合わせて言い方を変えるのだ、Aという人に言う時とBという人に言う時では言い方が違う。自分は戦後松下さんがPHP活動を始めた最初からおそばに居るが、体系化は不可能だと思っている”、と言われた。

そしてさらに、“ここは共通の願いを持った人が集まている場所だ。君が共通の思いを持つ人かどうか、しばらく文通でもしよう”と言われてしまった。

 私が帰ろうとしていると、“この研究所には君の学校の先輩が責任者として何人もいる。会って話でも聞いてみろ”と言われている。研究や編集の責任者が待ってくれていたようだ。この時の懇談会は楽しかった。私に“君は何がしたい”と聞かれたので、先ほど「思想の体系化がしたい」と言ったのはまずかったと思い、「私は教育か出版の仕事がしたい」と言うと、「それは両方ともしていない、共通の機関誌【PHP】の発刊だけだ、と言われた。ポカンとしていると、「しかし君がやりたいと思う仕事を自分で作ればよいだろう」とも言ってくれたのだ。

 

三ケ月程たち京都東山にある真々庵という松下さんの別荘でお会いできるというので出かけて行った。

 つい先日、アーノルド・トインビーというアメリカの未来学者で経済学者(当時「第三の波」と言う本を書き、人類は過去最大の変革である情報化社会にまさに突入した,と言う論説を書き、世界に衝撃を与えていた)が松下さんに会いに来た時に座ったのと同じ籐椅子に私も座らせてもらい一対一の面接を受けている。 松下さんの第一声は「君はPHPは何するところやと思っているか」という言葉であった。

 私も一瞬言葉には詰まったが、落ち着いて「人間には平和のPピース、幸福のHハピネス、繁栄のPプロスペリティに向かう無限の能力と可能性が与えられています。その無限の能力・可能性を最大限に発揮するための物の見方、考え方を研究するところだと思ってます」と答えた。

 この答えには松下さんもびっくりしていた。後ろに控えていた所長代行に〝ようわかっとるやないか〟と言っていた。 

 私がどういうタイプの人間かが分かったようだ。多分頭で考えるタイプだとも思ったのだろう。しかし頭で考える人間でなく、行動ができる人を望んでいたのだ。

 

<京都駅前の軒並み訪問>

「よし分かった。しかし物事は外から見るのと、中に入って実際に仕事としてやるのでは違う。入ってから“しもた!”と思ったら君も困る。嫌々働かれたのではこっちも困る。ついては君がこの会社をテストしてくれ」と言われている。

 この会社(松下さんは基金を元に減らさないように活動する財団法人は嫌いで、PHP研究所は一人法人の株式会社)が何点取れるかワシに教えてくれ。そしたら、こちらも、君に入ってもらえるかどうかが分かるから」と言われた。

 常に相手の立場から五分と五分で発想する人なのだ。このことが人にやる気と主体性・自立性を与える。それだけではなく、身近の人の意見(今回は先入観無く近所の住民の意見調査)をフィルターなしで集めるのも、この人のマーケッティング手法だ。

 具体的には“次の土曜日に、PHP誌(当時は取次を通さず直売で、まだ書店にPHP誌は置いていなかった)を京都駅前のパチンコ屋、お土産屋、大衆食堂と東に十軒ほど売りに行ってくれ”、と言われている。

 私は何も教えられていないが必死でPHPの趣旨を訴えた。 いろいろ面白いエピソードもあったが、結果として三軒で買ってもらい年間購読をしてくれる人もいた。

 その報告書を見られたのだろう。次に言われたのは、“普及部(松下さんは松下電器でも営業という言葉は使わず「普及」と言っていた。新しい電化生活を世の中にあまねく及ぼす、という意味)人事部、研究部、編集部、発送センターなど、全部門を一日ずつ回って仕事をして、その感想を教えてくれ”と言われたらしい。それも行った結果、所長代行(松下さんは死ぬまで所長であった)からは「営業の仕事をしてもらえ、営業でしか役に立たなくなったら、編集でも研究でもやってもらえばよい、と言われた」と聞かされた。その意味は中途半端な気持ちでするな、ということだろう。

こんな入社試験を受けた人がいるだろうか。至れり尽くせりだ。

 そんな洗礼を受けて入った人間なので、私は自分が使命感の持てないことする気はなかった。他の所員は皆松下電器の各事業部の人事から出向を命じられてきており、帰るところがある、仕方なしに一時的な腰かけのつもりで来ていている者が多かった。私は帰るところがないし、自ら求めて飛び込んだのだ。それなら自分なりに努力をして使命感を見つけだそうと決めた。

 

入社前と新人の頃の体験で学んだこと

 私は入社が内定していたので翌年四月の入社式までは修士論文を書きながらだがPHPの東京事務所でアルバイトをしている。

 或る日、群馬県の書店周りとナショナルショップ店に回収(電気店が松下電器の半額助成でPHP誌をお客さんに配ってくれていた)に行ったことがある。そのついでに近くにあった少年院に行って子供たちにPHP誌を読むよう勧めてもらう約束をした後、その近くにあった私立女子高校にも飛び込こみ、私の体験談と松下さんのPHPにかける思いを「道を開く」(松下さんの名言集)を暗唱しながら語った。

すると、もともと松下さんのファンであった副校長が共鳴してくれて、25冊ほど送ったバックナンバーのPHP誌を教授会で配り、自分で読んで、良かったと思う所を生徒の前で読んで聞かせ、ホームルームの時間に読みたいと思う人を募ってほしいと言われたようだ。

 一週間ほどたった時、夜遅く居残って仕事をしていた私に副校長が電話で1500冊以上の本の注文をくれたのだ。

“今、私の机の上は10円玉の山です”と言われた時の感動‥、周りの先輩たちも全員万歳を叫んでくれた。この時の感動は今も忘れられない。

 私は京都駅前の飛び込み訪問の時も、女学校に行った時も松下さんの「道をひらく」の中の文章を朗読している。感動が感動を広めるということを体得し、その後の営業で生かした。この女学校はその後もずっと長く購読を続けてくれていた。他の所員は松下電器関係(事業部・営業所・販売店・下請け会社)に売ることばかりをしていたが、私は松下電器のライバルである伊丹の三菱電機や姫路の東芝に売りに行った。三菱の北伊丹の経理担当の取締役から、“なんで松下さんのやっているPHP誌を社員に勧めて金まで集めないといけないんだ。社員教育まで松下電器の世話になっているのか、と社員に受け止められたら従業員の勤労意識を阻害する”と言われたりした。私が“それは素直な心ではありません。業界の品位を高めないといけないのです”と言うと、“そうやな、読んでもらいたい人間もおるなぁ”と、何となくわかってくれて斡旋してくれた。しばらくして、取締役から“1500人ほどの年間申し込みがあった。こんなに申し込むとは、思わなかった。読んでる数は社内報より多いかもしれん”と言われている。

 当時一番多かった注文は、飛び込みで入った難波の「551蓬莱」(豚まんで有名)さんだ。スレートぶきの工場の外階段でお会いしたのが創業者だった。私の体験談などを聞いて言われた言葉は、“私は台湾から日本に来て日本人に大変お世話になった。何とかお返しをしたいと思っていた。たまたま、うちで買い物をしてくれたお客さんからのアンケートハガキがある。その人たちに一年間贈ろう”と言って四千枚ほどのハガキを渡された時もびっくりし感激した。この会社の年間注文はずっと長く継続された。

当時はそれ程松下さんのファンがたくさんいたのだ。

 

 私はテキストやマニュアルから学ぶのでなく、自分の体験から学び、自分らしいやり方を作り上げていたのだと思う。それが松下さん式の教育法なのだ。これは私の絵を描くスタイルや旅のスタイルにもつながっている

 23歳で入社して30歳の時までは営業に籍を置いていたが、物売りになどなりたくないので、自ら周知企画室を提案して担当し、いろんな販売助成物を開発し、自分の主任職上級研修のテーマには、松下さんの思想を伝えるためのスライド解説とビデオ(松下さんは昭和初期から会社の行事や方針発表を16ミリ映画や試作品のオープンリールのビデオで残していた)、それと本人の音声テープ(約四千本ほど。これは休みの日に秘書や執事とともに聞いて反省研究するためのもの)を私が一人で編集し、百本ほどの研修会用の視聴覚教材づくりをした。

 なぜこのような膨大な教材が残ったのか。これが松下さんの自修自得のやり方だったからだ。自分がやったこと、自分が訴えたことが本当に相手に伝わったか、成功したか、失敗したか、それをテープで聞くことで相手の反応を感じ取り、反省していたのだ。それを休みの日に執事や秘書なども呼んで一緒に聞き、出席者の感想を聞く方法でやっていた。

 常に自分の体験から学ぶことをし続けたのが松下さんの成功の理由だ、と私は自分の作った研修会で訴えたかった。そのために「PHPゼミナール」という「松下さんの生の声や姿」から体験的に学ぶことの出来る勉強会を作ったのだ。

 もう少し具体的に言うと、五分間の長さに編集したテープ百本を四つのジャンルに分け、それぞれのテープの内容が回答となるような設問を作ったのだ。例えば、「トヨタ自動車さんにカーラジオを納めているが、一か月前に5%、今回はさらに30%のコストダウンを要求されました、あなたならどうしますか」といった設問だ。これは松下電器の人なら知っている有名な話だが、ボーッと知っている程度で、深く理解している人はいなかった。

 だから、それをテープで本人の声で聴かせると誰もが驚く。肉声は気迫がこもっている。簡単に言うと、毎朝の朝会で唱和している7精神の一つ「産業報国の精神」が分かっているのかと叱っているのだ。

“無茶と思うなら断れ。しかし、わしは無茶とは思わない。もしわしがトヨタの社長なら当然する要求だ”から始まっている。その後、“しかし、これはトヨタさんの要求ではない。日本の産業の要求(当時、あらゆる産業の貿易自由化をアメリカが要求していたのだ)だ”とテープで言っているのだ。松下さんの発想は常に、自分の立場、相手の立場、本来の使命へと、常に正・反・合で持って行くのだ。それは「対立と調和で生成発展するのが天地自然の法則だ」と言う松下さんの哲学があるから言えることだ。それを聞くと、ああそうだった、忘れていた、いつも言われていることだ、と気付くのだ。

 こんな要求は無茶だと思いながら、いやいややるのと比べると雲泥の差が生まれる。部下だけでなく、下請け会社の姿勢まで変わってくるから成功するのである。もっとも映像で見せる方がより分かる場合もある。

 例えば創業六十周年の方針発表で“この十年間何をしておった!”と激しく叱った後で、演壇をぐるっと回って前に出て、“とは言っても六十年間皆さんありがとう”と、主任職以上が全員が集まった大講堂で「三顧の礼」(深々と三回の礼)をした時は全員が涙ぐんだものである。その映像が残っている。

 それは置くとして、私のやり方は、テープを先に聞かせるのではなく、先に設問に対する回答を自分で考えて書くやりかただった。松下電器の人間なら本で読んだような気がするので思い出そうとするが、頭で覚えておくよう答えではない。信念だから出て来ないといけない。しかし改めて聞いてみるとビックリする。そうだった、前も同じようなことで叱られたことがあった、と思い出すのだ。このような教育法は、たたき上げで自分の信念を築いてきた(中小・中堅企業)経営者であれば必ず共感することだ。

 

 PHPゼミナールの開発

なぜそう考えたかというと、私は営業の仕事を七年間程やったおかげで松下さんの信奉者は全国・全世界にごまんといたが、本当の信奉者は中小・中堅企業の経営者だと強く感じていた。学歴は無いが自らの体験から学べる人。自分の体験をかみしめて味わい、そこから自分の信念を掴む人でないとだめだということだ。

 その反対の学歴至上主義者(設問も答えも先生や前例から学ぶだけの人)には松下さんの思想は絶対に理解できない、という確信を持っていたのだ。

自修自得で学んできた人たちに、「松下さん居ませるがごとき勉強会」を作って、そこに出席してもらい、その人たちからPHPの使命と機関誌PHP誌の普及を手伝ってもらおう、と考えたのだ。そして私自身の研修の仕上げとして実験のセミナールを、うちの新入社員中心に10人程(私が入所した後も五年ほどはまだ直接採用をしていない)を相手に実施する、という計画書を提出していた。その情報が流れたようだ。松下電器から五つほどある社員研修所の所長を全員参加させてほしいと言われ、一泊二日、夜中もほとんど寝ないゼミナールを松下電器の奈良社員研修所で一人で行った。

 

すると松下電器の教育訓練センター(全社の教育本部)から、うちの訓練センターの幹部職員全員にやってくれ、と言ってきた。

 

 それをやった次の日には、“ぜひ売ってほしい”と三人の幹部がやって来た。

これを売るべきかどうかは松下所長に報告して判断をしてもらおう、ということになり、直後にPHP研究所にやって来られた際に、教育訓練センターでの私の姿を先方がビデオ撮り(まだホームビデオの機械もカメラも試作品の段階だった)したものをお見せした。

 そのとき松下さんは「君はここに座ってくれ」と自分の隣りに座らせ、ビデオが始まると、私の膝を叩いて画面を指さし“君、なかなか男前やなと言ってくれたのにはビックリした。何を言い出されたか、と思ったのだ。

 それだけでなく、「君のような人がPHPにいたことを僕は今日まで知らなかった。誠に申し訳ない。これから死ぬまで君のことは忘れない」と言って頭をテーブルに付けんばかりにして詫びてもらっている。これで私は20年分の使命観を充電をされてしまった。部下に長期の使命感を持たせるにはこのような姿勢が大切なのだ。これが松下さんがしばしば “松下電器の幹部に欠けているのは愛嬌だ、難しい顔をしていたら誰も提案してくれない”、と言われていたのはこのことだろう。

 

 報告が終わると“社員研修所には売らなくてよい、君が松下の重役に対してやってくれ、わしも生徒として出る”、とまで言われ、実際に二度三度と出てきてくれた。そして受講者に“参考にするのは良いが、家康のまねをしても家康にはなれんで、自分に相応しいやり方を身に付ける努力が必要や”、と言われていた。松下さん自身が出席を実行するので重役の中には二度三度と出てくる人もいた。

 

 

<松下さんに本人の「志の軌跡」を語る>

それからしばらくして、松下さんから“君が活弁でやっているスライド解説をわしにもやって見せてほしい”、という連絡が入り実際に二時間近くかけて「松下幸之助志の軌跡」なるものを一対一で聞いてもらった。

 その時は「君はわしのことで、わしの知らんことまで知っている」と言ってくれた。知らないことがあるのは当然で、私は入って七年間ほどの間に、過去に松下さんの指導を受け、今は退職している元大幹部や現役理事クラスの人だけでなく社外の信奉者にも会って“松下さんから学ばれたことは何んですか”を聞いて回っていたからだ。これが実は私の営業方法で、訴える前に、先方の知っていること教えてもらうのだ。

 言ったご本人(松下さん)は忘れているが、言われた方はよく覚えている。本だけで松下さんの考えを学んだ人でも、あたかも直接の指導を受けたかのように話してくれる人が多かった。それはご自分の体験と結び付けて日頃から社員に語っているからできることだ。

 私が活弁をしていた時に私の上司が横にいて、「どこかまちがていませんでしたか。間違っているところはすぐ直させます」言うと、「そうやな、一割ぐらいはちょっと違うと思うところがあった。しかしそれは直さんでも良い。彼の解説は筋が通っている。このままでよろしい」と言ってもらっている。

 このとき松下さんは「君なぁー、昔話になったらあかんで。昔語りになりや」とも言れた。

“こんなことがあったとさ、めでたしめでたし”という単なるお話で終わってはいかん、この話を君が自分の体験に当てはめて、咀嚼して自分の信念にして訴え、聞いた人にも実行してもらえるようにしなさい、ということだ。

この教えは、その後の私の学び方や第二の人生で始めた「旅の仕方」「絵の描き方」にも強く影響している。

                   ※

それにしても三十歳ぐらいの若者に自分(松下さん)の志を代弁させ、口移しではない、私らしい信念の掴み方を評価してくれたのだ。しかし、これほど完全に任せることのできる人に私は感動した。私は松下さんのためなら死んでもよいという気持ちになった。社内の上司の中には、可愛がられた私をねたむ人もいて嫌なこともいろいろとあったが、松下さんが亡くなるまでは会社を辞める気持ちにはならなかった。

 その私が、同じ年齢の人よりも早く、20世紀になった2000年の116日の55歳の誕生日をもって会社を辞めて独立している。私の人生の師匠の松下幸之助さんは1989(平成元年)94歳で亡くなっており、その後のリーマンショックなどを契機に松下グループの経営陣が総変わりし、会社の体質は1990年からはすっかりアメリカナイズされた別の会社になっている。社名はパナソニックに変わり、自主責任の事業部制は前世紀の遺物として廃止され、上場していた松下通信工業や九州松下電器、松下電工も上場を廃止し、すべてをファクトリー(工場)という名にし、東京の本社の指示で急速立ち上げ、売れなければすぐに生産を中止し、無在庫で物を作る会社に変わっていったのだ。消費者の声に耳を傾け良品廉価、で水道の水のごとく商品を供給するという松下さんの「水道哲学」は消されたのだ。

私のいたPHP研究所も松下さんの一人法人で、我々も一部の株を分けられていたが、遺産相続した松下電器の会長がその全株を持つオーナーになっている。

そしてそのオーナーの代理として全権を委任された人がやってきた。その人が全社員に向かって最初に言った言葉は、それが経営方針なのだろうが“この会社はROIが極端に悪い”という言葉だった。リターン・オン・インベスティメント、投資者に対する見返りが悪いということだ。松下さんは「企業は天下国家の人・物・金をお預かりしているから、経営する人は最適任者でなければならない。そこが赤字であるなら、事業部長は工場まで来る道も他の人の税金で舗装されているのだから、道の端を遠慮して歩くように」、と言っていたのとはえらい違いだ。

PHP研究所も当初は赤字であった。その際には“いつまでも赤字で企業として永続すると思っているのか。万国博のように、ハイ終わりました、ご苦労さん、と言ってシャンシャンシャンと手を打って別れるつもりか”とは言われたりはした。しかし“投資家のために働け”などとは言われていない。私より上の人は皆松下電器の出向だったので、いずれ松下電器に帰ろうと思っていた人が大半だつた。だから、企業の論理で運営方針が変わっても仕方がないという程度であったかもしれない。しかし私はこの時、早期退職を決めていた。

しかしその前に実績を積むこととネットワークづくりが必要だった。その上で、好きなことをするための体力気力があるうちに辞めようと決め、西暦2000年、私が55歳の年の1月16日の誕生日と決めていた。

振り返ってみると、会社人時代の私は、いろいろと新商品、新組織を提言し自ら手掛けてきた。誰からも指示されたわけでなく、たとえば、営業の立場から、アドサービス品として「松下幸之助の言葉日めくり」を人生・経営・商いの三部作として作成している。これは、研究部が買い取ってくれて今も改訂されて商品化されているようだ。書店向けのPHP誌とは別に企業向けの内容を加えたPHP誌を出すことを提案し、当初、編集から、「そんなことをする人的余裕はない」と断られ、その代わり16ページ分を任されて取材原稿も書いていた。この企業向けのPHP誌は何年か後だが書店向けを逆転し時期が長くあったが、今は元のように一本化されているようだ。さらには31歳の時には先に述べたように、松下さんの音声と映像を使ったPHP経営者ゼミナールを開発(この時に作ったテープやビデオが後に商品化され売りだされた)。それからは営業から離れて研修局という部門を作り、その主幹の仕事に専念している。

50歳頃には松下さんの①生き方働き方②商いの心③物づくりの心、という三部作の通信教育用のテキストを松下電器から出版部を通して依頼され、それを一人で作成した。その際には設問も私が作成し、その模範解答も作り、手書き添削人40人程を松下電器元幹部(実験ゼミに出ていた所長も三人)の中から募集し、添削員の指導もして一つのシステムに仕上げている。

 

PHP経営塾(ガーリック経営)を作り塾頭となる

この仕事とは別に40代中頃に全国の若手経営者(二代目)対象のPHP経営塾(三日間を隔月一回で年間六回)を作って松下さんを塾長に、私は塾頭になっている。そこで使った教材は松下電器の元幹部や社外の松下さんの信奉者にセミナー講師として来てもらい、それをビデオ撮りし私が編集したものもあるが、私が直接出かけて行って全国で取材した新しい時代の若手経営者のビデオが中心だった。それと当時は竹下内閣による「ふるさと創生」運動が活発だった。

私は全国にいた町づくりのカリスマ的リーダーを取材し、塾生にも、これからの経営者は町づくりに参加しなければいけない、と指導した。そんなわけで費用をほとんどかけずに教材作りをするのが私のやり方だ。
このようなやり方は私のヒッチハイクの旅やレンタル自転車の旅ともつながると思う。塾生たちも社員を連れて見学に行き、社員の発想と気づきを促していた。下の写真の終わりの二枚は30年代の松下経営に学ぼう、と言うことで集まった向こうの中堅企業の経営者の勉強会風景で、ここでも私は自転車で取材していた。禅寺に行って三日間勉強会をしたことも何度かある。塾生にはこれが一番印象に残ったようだ。