大阪電灯時代と創業期の松下電器
話は先に行き過ぎたが、15歳の松下さんに話を戻すと、次の採用試験で大阪電灯に見習工として入り、翌年には最年少の工事担当者に昇格している。
その時たまたま、通天閣にイルミネーションを取り付ける仕事があり、それを新年までに完成させるため、寒風吹きすさぶ中で仕事をしたのがもとで、肺炎から結核の初期に落ちいっている。一週間に一度か二度は会社を休まないといけない。すると皆勤手当がもらえない。これが給料のうちで大きなウエートを占めており、薬のお金もいった。奥さんは針子として優秀で家計を支えていたが、質屋通いばかりしていたという。
風呂屋に行く金も渡せない時は、近所から頼まれていた電気製品の修理の仕事をしてもらい、終った時は風呂屋も終わっていたので行水で済ませてもらった事もある、と言われている。そこで松下さん夫婦は家で寝ていてもできる仕事はないかと考えていた。
その結果思いつくのだが、去年(20歳)たまたま特許を取得した松下式ソケット(下駄の鼻緒の形をヒントに考案) を独立して自分で作ろう、と決心している。
去年考案した時には上司に提言をしたのだが、“松下君これはだめだよ、はずれやすそうだ”と言われている。
だが、そんなことはない、と思ったので特許を申請し、それの認可が下りていただ。“よし、これだ”と言うことで始めたが、いざやると決めて分かったのは、練り物の材料を何処から購入し、どれぐらいの比率で混ぜればよいのかもわからなかった。練り物なので火を使うため、土間がいる。小さな家を借りて自分で床を落として土間にして、二階で寝るための階段の下まで人が入って仕事が出来るようにした。現場を見た人は「お前とこは潜水艦の中みたいや」と言つたそうだ。
結果として、まったく売れず、電灯会社を退社して参加してくれた友人の貯金まで使わせてもらったのに散々な状態で、友人は去って行き、窮地に立たされている。
その時にたまたま河北電機(後の松下精工)という会社が扇風機の碍板を練り物でできるところを探していると聞きつけ、一息をつくことが出来たのだ。それにしても大阪電灯は関西電力の元の名で大会社である。そこを辞めて松下さんについてきてくれた友人たちは松下さんの夢を語る時の説得力に動かされたのだろう。後にこの人たちには十分に恩返しをしている。