<山下新社長と私の出会い>
 
私の原体験で「松下さんとの出会い」を紹介し、私の開発したPHPゼミナールを松下電器の教育訓練センターが買いに来た、と紹介したが、その後の松下電器幹部への研修実施は異常なスピードで展開している。まさにこの時の私は運が強かったのだ。 
それには教育訓練センター長の松本邦治さんの働きが大きい。この人は米子の農家の出身で、若い頃に給仕(昔は女子社員はいなかった)として松下さんのお茶くみ係をしていた人だ。
その後オランダのフィリップスと提携してできた松下電子工業の総務部長を長くやり、テレビ事業部長になっている。そこまでは良かったが、オリンピック直後の不況でカラーテレビが価格競争になり、品質問題が発生。松下電器のテレビが火を噴く、という事件が各地で発生し、松下さんに叱られ事業部長を首になっている。
叱った日の晩に松下さんは松本さんの自宅に電話をし、“君は他の人にない体験を積んでいる。僕のお茶くみをしながら10台ほどの電話当番(台湾や朝鮮の工場だと、いつ電話がつながるか、何時間かかるかわからない)を独りでしていた。そして毎朝の私の「一日一話の朝会訓話」の記録係もした。おかげで、うちの奥さん以上に幹部指導の実態を学んだはずだ。
電子工業の総務部長時代は外国人技術者の面倒も見たし、そこが永らく赤字の間は幹部と共に苦しんだ。テレビでは大失敗をした。そうした成功体験や失敗体験を若い人に伝えないといけない。
ついては今度造った教育訓練センターの所長になれ、と言われるのである。
これが松下さんの教育法で、失敗を生かすための敗者復活戦をさせるのだ。
松本さんは、こういう体験者だけに私が一日だけだったが教育訓練センターでスライド解説とテープ活用を実演した時にはびっくりしたのだ。
私のスライド解説が終わるや否や立ち上がって、“お前たちは何十人もいて、何をしていたんだ。居眠りしていたのか。これこそ、うちがやらないといけれない仕事だったのに。この若い前岡君一人に負けてしまった”と怒り出したのだ。その結果異常なスピ―ドで「PHPゼミナール」は社内に広がっていった。毎週、三日間(金,曜の午後から土・日)の研修会が行われた。これは松下さんが幹部の仕事の邪魔をしないように、と言ったためだ。
私も三年ほどはこの仕事に没頭し多くの幹部に接し、夜の宴会も私と上司が寝るための畳部屋に集まってもらってやった。おかげで素晴らしい体験もさせてもらった。特に印象に強く残った人がいた。理事で製品検査本部長の田上平吉さんだ。最後の決意表明で“田上平吉遅きに失した!”と大声で言われたのだ。この人は東京営業所長を長年やり、「東京の天皇」と事業部長からも恐れられていた人である。
その営業のトップの田上さんに、ある日突然。松下さんはクーラーの事業部長を命じたのだ。
“田上君、物を売るのも物を作るのも同じだ。営業の体験を生かしたモノづくりをやれ”、と言われて担当し、三年間苦しんだそうだ。
海外メーカーの持つ特許に苦しんだのと、今まで厳しく事業部長を叱ってきた人が“物づくりをすることになったので教えてください”、と他の事業部長に頭を下げにくかった面があるのだ。
行き詰っていた時に、当時の松下社長に呼ばれて「田上君、大変やったやろな、よくやってくれた。しかしなぜ失敗したか分かつているか。
“君は四十年の歴史と伝統のある松下電器としてクーラーを作ったのか。それとも田上平吉として作ったのか。どっちだ”。“なぜ、クーラーに一番近い仕事をしている冷蔵庫の中川事業部長や物づくりの天才である中尾さんの教えを乞わなかったのだ”と叱られている。
その上で、「わしは今度、製品検査本部という本部を作ることにした。その本部長として、これまでの体験を生かすように」、と新しい仕事を命じられたのだ。当然、事業部と営業所の緊密な連携や本社商務部との連携を期待しての人事だ。誰でも社長の意図が分かり、強力な製品検査本部が生まれたのだ。
この田上さんさんが三日間の研修に来られて、締めくくりの決意表明をした時、他の受講生は粛然とした。三分ほどの演説だったが、第一声は「田上平吉、遅きに失した!!」ということばだった。
次に「永らく相談役様のご指導を受けながら、そのお心を十分知らなかった。本日から製品検査本部内で私が中心になって徹底した創業者の勉強会を行う」と言われたのだ。
定年間際の人の中には、「このような偉大な創業者のもとで、同じ空の下、同じ屋根の下で仕事が出来た自分は幸せだった」、と涙ぐんで語る人も多かった。
実は教育訓練センター長の松本さんと製品検査本部長の田上平吉さんが、定年の挨拶に松下相談役の所に行った際には、若い前岡君がやっている経営塾を手伝ってやってほしいと頼まれている。
お二人だけでなく、そういう人が実は他に何人もいた。なぜこんな人達が私に挨拶に来られるのかわからなかったが、PHPゼミナールを立ち上げて五年ほどしてPHP経営塾を立ち上げた際に松下さんに塾長をお願いに行っている。今度は全国中小企業の二代目を対象に長期でやるためのカリキュラムを説明に行っている。「君が塾長で良いではないかと言われたが、今回は経営実践がないとできないので、ということで経営塾長になってもらった。そんなことからだと思うが、「君が取材をして、この人となら一緒にやれると思う人が居たら四~五人名前を言ってくれと言われて言ったことがあったのだ。それを覚えていて私を補佐してくれたのだ。
松下電器の部長職以上の研修はPHP研究所での勉強会に来てもらい、私は経営塾に打ち込んでいた。松下電器の課長職対象のPHPゼミナールは社員研修所がPHP研究所のFCになり、私がリーダーコース用の内容を作り、全てを向こうがやってくれてノウハウ料を払ってくれていた。その仕事で山下社長から社長賞をもらた人が社員研修所から毎年何人も出ていた。中には私の家にお礼に来られた人もいた。
なぜそのような研修会が大車輪で何年も出来たのか今なら話せる面がある。
それはたまたま山下新社長が誕生した年に私が「創業者に学ぶPHPゼミナール」.を開発したからだった。
<なぜ山下さんが新社長に選ばれたかーー運の強い人だったから>
松下さんが山下さんを一番下(25番目?の)重役の中から社長を任命したとき山下さんは断り続けて逃げ回った有名な話がある。松下さんは山下さんが断っても簡単にあきらめる人ではない。
例えば、松下さんが37歳の時に天理教を見学し「優れた経営だ」と啓示を受けて作った「松下電器の250年計画」は歴史の一コマに過ぎないと思っていた人が社内でもほとんどだった。
ところが、命知50年(昭和7年から50年目の昭和57年)の丁度一年前の日に<命知五十年を迎えるにあたって>と題し、創業者主催で幹部社員を全員集め、徹底的な討論形式の指導を二日間行っているのだ。それはまさに鬼気迫るものがあった。松下創業者は、物事をやると決めたら生きてる限り貫く人だと、当時の幹部は皆肝に銘じて教わったのだ。命知の宣言文を秘書がゆっくりと読み上げる間、松下さんはハンカチで涙をぬぐていた。
そんな松下さんだから、社長任命は用意周到であった。全副社長(当時四人いて、松下の社員もこの中から社長が選ばれると思っていた。ところが松下さんは、この四人全員から全社の副社長の肩書を外し、関連会社の社長にし、山下さんが働きやすくして、それぞれに山下さんの説得をさせている。最後には社長(この後、会長になる)や、労働組合の委員長の高畑委員長にも、社員の代表として山下さんを説得させている。
私はその後、組合長から営業本部の部長になった高畑さんに会っている。実は随分前から組合と会社の関係は対立と調和の見本だと教わっていたからだ。松下さんは、「宇宙の万物は対立しつつ調和することで生成発展している」という根本哲学を持っている。「お得意様の番頭」「上司説得の権限」「営利と社会正義の調和」もその具体例だ。
したがって、組合は対立しつつも会社のパートナーでないといけない。終戦の翌年設立された松下電器労働組合結成大会が中能島公会堂で行われた際には招かれたわけでもないのに松下さんは祝辞を述べに行っている。この時も出席者全員が泣いたのだ。その組合が進駐軍に社長の経済界からの追放命令から除外してほしいと組合員全員の署名を持って嘆願に行くのである。これには対応した星島商工大臣も泣いたと言う。日本人同士が疑心暗鬼でになり、組合は皆社長を辞めさせてくれと言ってくる。その中で社長と社員の間でこれほどの信頼関係が残っていたのか、と驚いたのだ。
松下電器の歴史館の入り口には松下さんが両手を開いて見学者を出迎えている大きな銅像があるが、その足元には「労働組合を対立と調和の精神で正しく導いてくれた創業者に感謝し、組合結成40周年の記念に贈る」と彫りこまれている。このように創業業者の思想哲学とその実践があっての松下電器だったのだ。
しかし社長人材としての山下さんを見つけ推薦したのは高橋会長である。
高橋さんは松下さんが相談役に退くまでは副社長や会長だった人だ。この人は朝日乾電池という松下電器のライバルであった会社からの途中入社だ。しかし、松下さんが一番尊敬していた人でもある。この人が、山下さんの経歴を調べ、松下さんに推薦したのだ。
山下さんは大坂南の工業高校の出身で、卒業時に父親が亡くなり、兄弟の面倒を見るために、松下電器に就職している。電球製造の仕事をしていたが、戦後一時期、退職した松下の重役に連れられて会社を辞めている。その重役の事業がうまくいかず松下に戻った時に無理に連れて戻った人だ。
松下電器には出戻りが多い。松下さん自身も火鉢屋、自転車屋、大阪電灯と三回退職した経験があるので、そうした人達を「社外留学を自分の金でした人」と言っていた。いったん辞めても、外部から松下電器を見て、その良さに気が付いて帰ってきてくれた人なので、これは貴重な体験を持つ人だと大切にしていた。
再入社した山下さんは、松下では最もパッとしない。社内でも存在をほとんど知られていない写真用品(ストロボや豆球・カメラ)事業部の子会社のウエスト電器に出向している。
そこで、過激を極めていた労働争議を納めさせ、その後、迷走していたクーラー事業部の事業部長として立て直しを図って成功している。このように個人としても経営者としても失敗と成功の体験を持ち、そこから前向きの信念を掴んでいる人を松下さんは「運が強い人」と考えるのだ。そして山下さんと同様の体験を持つ高橋さんが、“この人なら大丈夫”と太鼓判で推薦したのだ。
その他にも、選んだ理由がある。十年間は社長が務まる若さと「商売の松下」を「技術の松下」に変える人を社長に選ぶことが当時の松下電器の急務だったのだ。その点、山下さんは取締役で最年少でただ一人の技術屋だった。最適任者なのだが山下さんは、“考えさせてほしい”と言って一週間ほど逃げまわられたと思う。会社を辞めるか、というところまで追い込まれ、腹をくくられた。しかし、引き受けるには条件があると松下さんに言ったのだ。
それは一年間、相談役(松下さん)ご自身が直接事業部長を教育してほしいということだった。 
私は松下電器の社員ではないので、それほど松下社内がもめていたとは露知らず「松下創業者に学ぶ」PHPゼミナールなるものを偶然開発していたのだ。
そのため最初に松下さんに実験ゼミ(私の研修計画書にはそう書いていた。)の報告した時に松下さんから、「君が山下社長に会ってこの勉強会の内容を説明してきてほしい」福田はん(当時の東大出の首相)にも勉強会に出てもらえ”と言われて驚いた。当時松下さんは政府の教育審議会のメンバー(他のメンバーは国立大額の学長クラスが多かった。現場を知らない人たちだ、コロナ対応が遅れたのも同じだろう。学識経験者ばかり集めても対応が遅れるのだ。現場に通暁した責任者を集めるべきなのだ。
松下さんは当時の審議会のメンバーを見て、町人はワシだけやと言っていた。そんなこともあり福田さんから直接「日本の教育は今後どうすればいいと思うか」とたずねられたらしい。その時松下さんはこう答えたそうだ。
「それは、首相であるあなたの責任です。国を今後こういう姿に持っていきたい、というはっきりしたビジョンをあなたが示さないといけない。それが無いから学生も教師も混乱している。国家の運営も企業の運営も同様です。全ては、トップの責任で、その姿勢が国民に行きわたれば教育の現場もすぐに変わります」と。