【松下さんの若き日の体験】

 

        1.大坂で丁稚奉公をする

 

 父親は学問もあり和歌山の千旦(せんだ)の大地主で第一回村会議員にもなっている。松下さんの原風景は、乳母の背中に背負われてどこまでも続いた松下家の畑であり、名前のおこりになった大きな松の木のある長屋門のある立派な家かもしれない。

 ところが、松下さん4歳の時に父親は米相場で失敗をし、全財産を失い、続いて香港風邪(インフルエンザ)で兄弟は次々と亡くなる。松下さんは七人兄弟の末っ子だったが、残ったのは姉一人、男の子は幸之助だけになったのだ。

 

 父親は和歌山市内に出て下駄屋もしたが失敗し、大阪に出て当時、立志伝中の人物であった五代五兵衛(全盲にもかかわらず按摩針灸で兄弟を育て、不動産の斡旋で成功し。大阪初の盲学校を設立)さんの秘書兼小使いをしていた。大坂にいた父の考えで松下さんは小学校四年の終わりまで行かず、父親に連れられて大阪八幡筋の火鉢屋に奉公している。終わりまで行くと未練が残るので、少し早く奉公させるという風習があったようだ。

 

 その時父親は、「幸吉よく覚えときや、商売で成功すれば五代さんのように学問のある人を使えるのや。お前は辛抱して商売を身に付けて、お父さんが失敗して失くしてしまった松下家の家・財産を取り戻してほしい」と繰り返し、繰り返し頼んだそうである。

 父親の失敗で家族が苦しんだ体験があるので、松下さんは生涯賭け事や投機をしていない。日本一の資産家になっても松下電器の関連株以外は持っていなかった。しかし松下電器の株だけでも大変な金額だった。婦人雑誌で松下家の女中さんが株のおかげて大変な金持ちになったと騒がれたこともあった。

 

 ところで父に連れていかれた最初の奉公先の宮田火鉢店は、わずか三月後に夜逃げ同然で商売をやめている。そして父のご主人の弟が船場でやっていた自転車店へ奉公替えをしている。そこはアメリカのホープ社の自転車も売っており、当時は花形の仕事だった。

        

      2.たばこの買い置きで商いのコツを知る

 

   奉公した翌年、わずか十歳の時の体験がある。

 当時の日本の道は舗装がされていないためデコボコで段ボールではなく木箱が使われていたので、釘はやたらに落ちていた。そのためパンクはしょっちゅう起こる。修理を待つ商売人達(当時は仕事の足は自転車だった)は、修理が終わるのを待つ間に、たばこをふかす。丁稚に“たばこを買ってきてくれ!”、と頼むので、そのつど、手を洗って買いに走らないといけない。これでは仕事ができない

 

 たまたま、自分の給金でたばこを20個(Ⅰカートン)買い置きすれば一個おまけがもらえるのを丁稚の幸吉は知った。

 十歳の子の給金は知れたものなので、これを買うまでにはかなり時間がかかっただろうし、一大決心がいったと思う。しかしこれをすれば、仕事の手を止めなくてよいので店にもプラスになる。お客さんもたばこが来るのを待たなくてよい。自分も一個分もうかる、ということで始めている。

 それを見て、お客さんからは、“お前は才覚がある、きっと商売人として成功するぞ”、とよく言われ、本人も喜んでいた。

 ところが仲間の丁稚が「幸吉だけがいい目をしている」と御主人に告げ口をし、ご主人も「止めておけ」、と注意したので止めている。

 

 しかし松下さんはいくら考えても得心が行かなかった、自分の個人的な私心でやったのでなく、皆にとってもプラスと思ってやったことである。こういう工夫は奨励すべきものだと思ったのだろう。

 それと自転車店の五代さんに教わったことは古いタイプの商人の生き方だった。例えば塵取りの中身を見て、このミカンくずは垣根の所に干しておけ、木くずは風呂場の焚口に、石や土は元に戻せ,雑巾は濡れすぎても乾きすぎてもだめだ、そのころ合いを知れ、といった躾が主だった。ところが盲学院の院主の五代さんからは、いろいろと自分の知らない世界を教わったと言っている。この人はよく弟の自転車店にやってきたが、この人を盲学院(父親のいるところ)まで届けるのが幸吉の役目で、一緒に歩きながら人を見る目や不動産鑑定のコツを教えている。按摩針灸のお客さんは年輩で小金持ちの人が多い。その人の家に行き治療をしながら話をするので信頼もされる。不動産の仲介をするにはぴったりだと言える。

 五代さんはお客様の家に一歩入ると、その家の値打ちが分かったそうだ。柱を触り、廊下を歩くと木の材質や風通し等が分かる。人の心も声だけの方が分かるらしい。たとえ目が見えなくても、それがプラスにもなると幸吉に教えている。

 この時の教えが後々に生きたようだ。 松下さんは工場の外に聞こえてくる機械の音だけで、ポンスが痛んでる、金型が減っている、ということが分かり、働く人の声の響きや空気で良い職場かどうかもわかったようだ。技術者には、ライバルとの商品開発競走で、“アッ、切ってきたな!”、と思って身をかわすようでは遅い、 真剣勝負は皮膚の皮一枚で身をかわすようでないとだめだ、と教えている。

 真剣勝負の話だけでなく、「音や匂いによっても気が付かないと駄目だ」「製品は死物と思ってはいけない。撫でてさすって抱いてみよ。そしたら、ここが堅い、ここが熱いと語りかけてくる。そこまでいかなければ一人前ではない」と技術者を指導している。  こうした幼い日の出会いから松下さんは自分が強く生きるための原理原則を掴み取っていったと言えるだろう。 

      

      3.お得意様の番頭になってファンを作る

 

 十三の時だが、近所の蚊帳問屋(かや・当時は羽振りの良い商売)をしている鉄川のご主人が「自転車を買いたいのだが」、と言って店にやってきた。そのときは、たまたま五代さんも番頭さんもおらなかった。そこで幸吉は、いつも番頭のやり方を観ているので、初めてだったが一生懸命説明をして勧めた。

 すると鉄川のご主人は“君はなかなか商売熱心でかわいいボンさんだ。よし分かった、それなら一割負けておけ”、と言った。それを聞いて、嬉しかったこともあるが、番頭が一割引いで売っているのを知っていたので、承知しました一割引きで売るようにご主人に伝えます、と返事をしている。 

 ところが帰ってきてそれを聞いたご主人は、幸吉を叱るのである。最終的に一割引くのは構わないが、その前になぜ定価で売る努力をしなかった。それは商売人としてよろしくない、ということだった。 

 これから鉄川に行って、“一割は引けません”と断ってこい、と言われる。そこで幸吉は泣きだすのである。一割引いて良いのなら最初から一割引きで売ってあげてください、と頼むのだ。すると御主人は“お前はどっちの小僧だ、どっちの番頭だ”と叱ったのである。

 そこに、返事が遅いので、鉄川の番頭が「なぜ自転車を持ってこないのだ」と聞きにくる、これこれしかじかて゛、幸吉が“一割引きで売ってあげてほしい”と泣くので、“お前はどっちの小僧だ、番頭だ”と叱っているのですよ、と言ったらしい。

 

 番頭からそれを聞いた鉄川のご主人は痛く感動し、“面白い小僧さんだ、幸吉トンを呼べ”と言うことで、行った幸吉に“今回はお前の顔を立てて5%引きで買う。そしてお前のいる限り自転車は必ず五代で買う”と言ってくれたのだ。

 それからは、この人にいつもかわいがってもらい、大きな自信になっている。

 それが、「商売人は駆け引きで売るのではなく、お客さんの番頭としてお役に立たないといけない」、という信念になるのである。

 こうして「メーカーは代理店の工場であり、代理店はメーカーの支店出張所」という経営指針が生まれたのだ。

       

      4.お金をごまかす同僚をやめさせる

 

  同じ13歳の時だが、店の金をごまかしていた同僚がいので、それをご主に訴えている。 

 ご主人はその丁稚を注意したが、松下さんはその後もその同僚を見守った結果、悪い癖はなおらないと感じたようで、再度訴え、

 “こんな男と一緒に仕事はできません、ご主人が辞めさせないのなら私にお暇をください”と抗議し、ついにご主人もその男を辞めさせている。この時も松下さんは、ご主人の優柔不断な姿勢に疑問を持ったようだ。

 

     5.市電が走るのを見て電気の時代を予測する

 

 幸吉少年15歳の時、大坂に市電が走った。築港から境川までである。それをさっそく見に行って乗っている。普通の子供なら電車の運転手になりたいと考えるかもしれないが、松下さんは違っていた。「これからは足でこぐ自転車で営業に回る時代ではない、電気で動く電車で得意先を回る時代になるだろうと考えたようだ。学問の必要性も感じていて、夜間学校に行き、友人もできた。それぞれが夢を持っており、互いに語りあっていたようだ。松下さんは晩年になっても「あなたの趣味はなんですか」と聞かれると「夢を見ることだ」と答えている位なので、当時の友人たちは松下さんの口から次々と出てくる夢を聞くのが楽しかった、と言っている。

 その夜間学校の友人の一人が大阪電灯に先に入っており、お前も来ないかと声をかけれてくれたので、よし、自分もその仕事をしようと決心したようだ。決心の背景には次のようなことがあった。

 電灯工事には何種類もの太さの違う金属線を曲げて取り付けないといけないが、これが自転車のスポークの修理とも似ていると感じたようだ。大阪電灯時代の仲間である森田さんが次のように語っている。

 

「社内で、ジョイントのつなぎ方の競技があると、松下さんはあの細い手で、太い六番線か八番線をジョイントする、そして手で半田あげをするのだが、誰よりも早くてきれいにできた。もちろん全部の時間を競うのだが、松下さんは、いつも一番でした」と。

 

 それと、当時の社会背景もあった。電灯はこの頃、大阪・京都で40万世帯ほどに普及し、電車だけでなく一般家庭でも身近に使われ始めていた。こんなことを夜間学校で知ったと思う。よし自分も絶対に電灯会社に入ると決心し、姉に頼んで「母危篤」の電報を打ってもらい、店を飛び出すのである。姉も弟の決心が固いことを知って手伝ったのだろう。後に、この姉が近所でお針子をしていた井植むめのさん(三洋電機創業者である井植歳男の姉・最初の社員・三人で創業)を結婚相手に紹介している。この頃は母も亡くなっており、姉は唯一の身寄りであった。

 ところで、五代さんご夫婦にはお子さんががおらず、幸吉を大変可愛がられていた。 

 だから飛び出した幸吉は、そのうちにきっと帰ってくると思っていたらしい。しかしそれはなかった。お店を遠くから眺めて、繁盛しているかどうかを見届けるにとどめている。顔を会わせたら、引きとどめられるのが分かっていたし、、お父さんに頼まれた松下家の復興再建はここに居てはできないと思っていたからだ。それでも五代さんを恩人と思っていた。

 松下電器には保信部という部門があり、お世話になった人には自分(松下さん)が生きている間は届け物をするように、と決められていた。私は責任者の諏訪さんがお中元を届けに五代さんのところに行くのにつれて行ってもらったことがある。しかしそこは、もう縁続きの人はおらず、自転車店の跡形もなかった。ただ五代音吉さんの写真があったのでコピーさせてもらっている。

 

      6.海に落ちて助かった体験から学ぶ

 

 話は戻るが、大阪電灯の採用試験を受けるために友人に教わった日に行ってみると、今回はもう採用を打ち切ったと言われている。しかたなく姉の家に泊まり、姉の夫が働いている桜セメントの、築港でのセメント運びのアルバイトをしている。

 ある日,松下さんは、セメント運びの仕事が終わった帰りの巡行船で、船べりに腰かけて涼んでいた。その時たまたま運転手がハンドルを急に切ったため、飛ばされて海に落ちたのだ。

 学校にも行っていないので、泳ぎ方を教わったことが全くなかった。沈みながら、もがきにもがいたらしい。もう死ぬかもしれないと考える余裕さえもなかった、と言っている。しかし落ちたことに気付いた人がいて、“誰か落ちたぞ!”と叫んだので、船が戻ってくれて九死に一生を得ている。

「その時に私がどう考えたか、というと、“おれは死なないぞ!運が強いぞ”ということだった。兄弟は死に絶え、両親も亡くなり。男は自分一人だけ。そんな中で自分は生き残った」。では何故落ちたか、不注意に船べりに座ったからだ。なぜ助かったか、夏だったからだ、気が付いた人が叫んでくれたから、そんなことも考えたかもしれないが、松下さんが考え抜いてたどり着いたた結論は、「自分の命はもしかすると親兄弟の分も生きるために、そして松下家を復興再権するためにあるのではないか」、ということであった。 

                  ※

 自分の体験を自分で分析し、味わって気づいたことを信念や使命感にまで高めるのが松下さんの生き方である。松下さんの自叙伝は当初は社員にのみ配布されたものだが、今はどこにでも売っている。タイトルは「私の生き方考え方」である。

 松下さんは「生き方、考え方」という言葉が好きだった。まさにこの言葉に全てが凝縮されている。大概の人は何か体験をしても“ああ怖かった。もう船に乗るのは止めよう”と考えたら、それ以上にかみしめずにずに終わっているのではないだろうか。ああ怖かったと言うだけでは、体験にならず、経験で終る。“こんなこともあったわね、あんなことがあったはね”、では幼稚園の卒園ソングだ。

 松下さんは晩年(84歳)松下政経塾を設立するが、その入所式で、この学校には先生はいません。形式上、私が塾長になっているが、皆さん自身が塾長だと考えて、私に質問する前に「自分が塾長ならどう考えるべきか」を考えてから質問をするように、と指導している。自分がもし疑問に思うことがあれば、じっくりとかみしめて考え、自分の考えを持った上で質問しないなら、たとえ何年学校に居ても何も学ばないからだ。

だから質問すれば必ず、「君はどう考えるのだ」と逆に尋ねていた。「私はどっちでもいいんですが…」などと答える人には返事をする必要もないし、しない方が良いだろう。

 

松下さんのキーワードはたくさんあるが、「生き方・考え方」以外に「積極的な素直な心」と「運の強い人間であれ」が特に大切だ。運の強い人間とは後で説明するが、その前に「積極的な素直な心」を例を挙げて説明しよう。

 

松下さんに営業所長と課長と平社員が並んで報告をすることがあると、松下さんは“君はどう思うかね”、と必ず三人に聞く。“上司と同じです”と言うと、“いや、君はどう感じたのかね”と、重ねて聞いている。そこに微妙なニュアンスの違いを聞き出し、納得できないと、関連する部門に行ってそこの担当者に質問をする。簡単に言うと、新商品に関しては営業所長と事業部長(製造現場)と本社商務部長の三点測量で実態を掴むのだ。

そこまでやらないと報告を聞いても自分の体験にはならないのだ。

 

したがって新入社員には、「毎日寝る前に、今日は自分はこういう提言を上司にした。そしたらこういうアドバイスをもらった。今回は自分が勝った。あるいは負けた、とつけておくように。もし勝つことの方が多くなれば、上司と君が交代すべき時だ、と言っていた。それと若い人には“君のその意見は上司に提言したか”と必ず聞く。“言いました”と言ってもあいまいだと、“部下には上司説得の権限がある。それをお前は実行したか。部下には上司説得の権限があるのだ”、と叱っていた。それを上司もいる前でやる。これは本人以上に上司を叱っているからだ。若い社員も、これからはこれをしないといけないのだと肝に銘じるだろう。松下さんは常に「公のしかり方」をして一人でも多くに考え方伝えようとしたのである。これが松下さんの「積極的な素直な心」である。消極的な従順なだけの素直な心は素直な心ではないのだ。 

 

運の強い人と弱い人(田原総一郎さんの質問に答えて)

先ほど海に落ちた際に「自分は運が強いぞ」と松下さんが自覚をしたと書いたが、その意味を私も身近で教わったことがある。松下さんが松下政経塾(84歳の時)を設立した時に面白いエピソードがある。評論家の田原総一郎さんが松下さんにインタビューに来たのだ。私はすぐにビデオ撮りの用意をして応接間で撮影をした。 田原さんが「政経塾生の採用は、誰がどのようにして誰が決めるのですか」と聞いた。

 

 すると、松下さんは「最終的には自分が面接して決めるが、運の強いのを採用するのだ」と答えている。田原さんが「そんなことが分かりますか。まさか八卦か何かで見るわけじゃないでしょう」と言うと、

 

「話をしていたら大体分かる。早いのは2分で分かる。20分も話していても分からんような奴はあかんな」と言っていた。

 

「何を話すのですか」と聞くと、「過去のその人の人生で、一番つらかったこと、苦しかったことは何か」と聞く。すると「父親が死んだ時だ」と答えたら、「その時にあなたはそれをどうやって克服したのか」と聞く。

 

それの答え方で、この人は自分の運命を前向きに受け止めることが出来る人かどうかが分かるのだ。運の弱い人間(=結果の責任を他責にする人)は周囲の人の運命も引き倒す人だから入れてはいけない、と言っていた。

 

 当然ながら「運が強い人」とは自分の運命をプラスに受け留め、それを生かしてきた人だと言ってよいだろう。そういう松下さんなので、「運が良い」という言葉を過去に使ったことが一度も無い。良い悪いは、単に感じているだけで、その人の生き方や信念ではないからだ。