●9月25日北海道室蘭・小樽・積丹・札幌

北海道の姉から、“母の白内障の手術がうまくいったので顔を見せてほしい”と言ってきた。大義名分が出来たので、この機会に北海道の岬をいくつか見てみようと思いHISの安いツアーを探す。出発直前の空席を埋めるための格安料金だ。団体行動を共にするわけではないらしい。五泊六日で3万一千円。ホテル一泊は余計だが、それにしても安い。千歳から直接行ける岬はどこかと調べたら室蘭の地球岬があった。

私の小学校時代の知識では室蘭は工業地帯と教わったので景色が良いかどうかはわからなかった。

それはともかく格安料金というのは千歳には3時半着だからだろう。四時の特急バスに乗ると室蘭には一時間半でいけるらしい。バスで隣のに乗ったご婦人と話をした。ご主人の仕事の関係でこの人は室蘭に住んでいたことがあるらしい。今は西宮に住んでいるが室蘭時代からずっと絵を画くクラブに入っていて、今も西宮の絵画教室に通っていると言っていた。

今回も室蘭時代の絵の仲間と会うのが目的で格安運賃で来ているそうだ。航空会社が二、三ヶ月に一回新聞紙上で募集する片道一万円の切符できたそうだ。この切符を入手するため朝からコンピューターを一時間たたいてゲットしたと言っていた。私が泊まる予定の室蘭のユースホステルの場所もよく知っており、そこは写生には絶好の場所だと言ってくれた。特にトッカリの浜が良いとも言っていた。また室蘭のラーメンでおいしいところがあるから、そこにぜひ食べに行けとも教えてくれた。この人がユースに行くには東室蘭ではなく、もう少し先の新日鉄前で降りると近いとまで教えてくれ 

降りてみると、真っ暗で雨が降っている。ユースに電話をした時、六時が夕食で、それまでに入らないと用意できない、と言われていたのでバス停近くのコンビニで弁当を買う。 

店を出た途端に突風で傘が壊わされる。傘を捨てて歩き出すと、すぐそばにタクシーが止まっていたので近いかも知れないがユースまで載せてもらう。最初の絵に描かいた崖の手前の赤い屋根の建物がユースホステルだ。タクシーは560円で、あっけないほど近かったが、ただユースが丘を登リ切ったところにあるのでタクシーに乗った値打ちはあった。

ユースは相部屋でもう一人若者がいた。東海大の通信教育の高校生だそうだ。泊まりは我々二人だけのようだ。オーナーは商売気の無い人で、お茶も無いし地図も無い。絵葉書も無いらしい。ブッブツ言っていると、地球岬のパンフレットの韓国語のものと中国語のパンフレットはある、と言って出してくれた。

室蘭には日本人は来ないようだ。私が絵を描きたいと言うと、それなら長靴を貸してやるから、うちの裏山に登ればよいと言う。そんな恰好でどこに行けというのか、ちょつと信じられない気がしたが雨があがっても下は濡れているだろうから長靴は借りることにする。 

このユースも昔はきっと日本の若者でにぎわったのだろう。「朝は七時が朝食だ、寝ていたら起こす」、と言われる。

雨が晴れることを祈って早く寝る。ところが明け方の4時50分に地震で起こされる。私が体験した阪神淡路の大震災並だった。随分長い間揺れていた。私はカイコ棚のベッドでなく畳の上で寝ていたからよかった。ようやくおさまったが、もう一度寝ることもできない。テレビをかけると帯広が震源で震度6から7らしい。

外はまだ暗いが晴れているので5時30分頃に長靴を履いて絵を描きに出る。身の丈をはるかに越える笹を掻き分けて裏山に登ると、そこは絶壁の上だった。朝日が上がってきた。きれいだ。昨日の雨もやみ、澄み渡った秋の空である。気持ちがよい。描いていると崖の下をオーナーが犬と一緒に海岸を走っているのが見えた。一人で生活をしている変わり者のようだ。しかし、ここの景色は気にいって住んでいるのだろう。お客は二の次という感じだ。

東室蘭の海岸線に広がる朝焼けを描いていると余震がきた。立っていられない。崖が崩れるのではないかと心配になる。救急車があちこちでピーポーピーポーと走り回り、津波警戒を呼びかけている。はるか向うでは煙が上がっている。苫小牧の出光の石油タンクが燃え上がったらしい。その時、携帯が鳴って家内から電話が入った。地震のことを心配している。 

余計な事を言ったらかえって心配するだけなので、大丈夫だとだけ言っておいた。まさかこんなところで描いているとは思わないだろう。七時から朝食なので描くのはここらで止めにする。帰ると、オーナーは今日は愛想がよい。こんな地震の中で教えたポイントで絵を描いていたからだろう。

そのあと、オーナーが自分の好きなポイントを教えてくれたので、そこをさがす。一つは浜に下りて浜から丘の上のユースを見上げる風景だ。絶壁はライオンのように見える。まさにライオンの顔の上にいたわけだ。

 下の浜は鳴り砂で歩くとキュッキュと鳴る。素晴らしい。どこまでも遠浅の浜辺をレースのカーテンを引っ張るように波が打ち寄せ、そこに白い雲と青い空が鮮明に写っている。まるで足元に空かあるようだ。はるか向うにトッカリ(アザラシ)の浜も見える。砂浜で描いていると、二人連れの男性が散歩にやってきて、私を見て「芸術の秋ですな」と声をかけてきた。良いところに来てくれたので、私がひざまずいて絵を描いているところを写してもらう。

 

ユースに一旦戻り、タクシーを呼んで地球岬へと向かう。先ほど見たトッカリ浜の少し先なので距離的には近いはずだが、タクシーはグルッと町の中を走るのでメーターはかなり食った。運転手によると昔はこのあたり一面が素晴らしい湿原地帯だったらしい。それも大昔ではなく自分が小さい頃はそうだったと言う。それを埋め立てて工業地帯が誕生したのなら、まさに世界遺産の破壊だ。その新日鉄が寂れて自然が少しよみがえったと言うのは少しオーバーだが事実のようだ。運転手が、私なら地球岬より手前のここが好きだと言うので、そこで降ろしてもらった。それは中にある「金屏風」と名付けられた岩で、夕焼の頃に金色に輝くときがあるようだ。そのの壁を描く。


その後、その辺を歩いていると、地元の人が来たので、“どこか良い景色はないですか、と聞くと、この土手の上に上がると見える、と教えてくれた。

道路の上に上がりススキを掻き分けて進むと、視界が突然開けて眼下にトッカリショウが見えた。ここで一枚描く。次はどうしようかと思いつつ描いていると下の道をたまたま車が走ってきたので手を挙げて停めた。現地の人だ。

“ここはどこでしょう、どうすれば電車に乗れるでしょう”、と聞くと、“ここは母恋(もこい)で、母恋駅(無人駅)までのせてやる”と言ってくれた。車の中で教えてもらったが、母恋とは開拓で入った人たちがつけた名前だそうだ。トッカリはアイヌ語でアザラシのことだ。駅に着くと、ちょうど汽車が入ってきて停まるのが見えた。無人駅なので走って飛び乗る。登別行きらしい。どこでもよかったが、線路が地震の被害を受けてないか調べながらトロトロと走り、間もなく停まってしまった。その後もトロトロ進んでやっと東室蘭に着き、これ以上先には行かない、と言うので降りて、バスターミナルからバスで札幌に出ることにする。

 

札幌市内への入り口である大谷地で降りて地下鉄で丸山公園の姉のところに行く。

母が私を待っていた。今年の初めよりもだいぶ元気そうだ。いつもこの家には両方の母親がいて私の母頭は頭がしっかりしているが足が弱く、義兄の母親はアルツハイマーだが足が達者だった。そのため、ほっておくと樺太に帰ると言い出して外をうろうろするので私の母がうまく説得していたらしい。翌日は私の塾生が大手の医薬品問屋の社長なので、そこに営業に行く。

社長を待つ間に近くの札幌美術館(三岸幸太郎の絵を多く所蔵)にいく。その後、塾生の会社に行き北海道の絵を描きたいので、お宅で社員研修をさせてくれ”、と頼むと、すぐに担当者を呼んで研修の確約をその場でしてくれた。仕事が決まったので、私はその足で小樽に向かうことにした社長との面が夕方だったため、小樽についたのは夜の八時である。ユース・ホステルは、天狗山ロープウェーの終点近くにあるらしかった。バスの運転手に、ユースがこのあたりにあるはずだが、と言ったが、運転手はそんな宿は知らないと言う。雨が降っていて街灯もなく真っ暗で誰も歩いていない。

雨にぬれながら近くの家のベルを押した。出てこないのでもう一軒隣を押すと、両方が同時に出てきた。そして怒った感じで対応し、ちゃんと教えてくれない。

明るいところを探して手帳を見て電話ユースにかける。ようやくわかって行ってみると、一見きれいなペンションだが、六畳の畳部屋に四人を一緒に寝させるらしい。カイコ棚なら四人でもよいが、畳に四人では寝れそうも無い。

相部屋の三人の若者達はロープウエー乗り場に夜景を見に行ったり談話室でビールを飲んでしゃべったりしている。 

私の息子くらいの青年が戻ってきたので話しけると、私の家のある高槻に住んでいて、それもすぐ近くらしかった

バイクで舞鶴から小樽に入ったと言っている。息子もよくそれで北海道に行っていた。これが一番安いのは今も昔も変わらないらしい。この青年は文科系でないらしい、私が「小樽は小林多喜二(プロレタリア作家)で函館は亀井勝一郎(若者に行き方を教える随筆家)だ」と言っても名前も知らない。われわれは「青春とは」「愛とは」と議論し,試験にも出たから名前ぐらいは知っていたものだ。今は違うらしい。あと二人が戻ってきたが、帯広に行くつもりが苫小牧沖が震源なので帯広方面への電車が動いていないので困ってい

も一つ旅の目的を持たない連中のようだ。話をする気もしないので、早く寝ようとしたが、マットレスと枕がふにゃふにゃで眠れない。何度もトイレに行く,年をとって眠れないとトイレに行きたくなる。眠れぬままに早く起きて,ロープウエーの横の道を天狗山に登る。

ここは冬場はスキーのゲレンデになるようだ。雨は降っていないが、雨に濡れていて登りにくい。どこまで上がっても同じ景色なのでいやになる。ここらでもう結構だと思い、下に広がる小樽の町を画く。ごちゃごちゃ家があって描くのが面倒だ。一枚仕上げて朝食に降りると,前の席で私と同じ年くらいの女性が食事をとっていた。岐阜の人で車で昨日帯広から戻ってきたという。地震があったのか・へー、ぐらいの感じ方だ。なかなか神経の太い人らしい。期待の朝食は安物のシティホテルの食事と同じだった。アルバイトが全部やっていて,これから行こうと思っている積丹の事を聞いても何も知らない。ユースの案内書には「自分ところのユースは積丹に行くのに一番便利」という書ていたはずなのに、こんなユースはダメだと思い早々に出て、町に向かって坂を下る。海岸までは距離があるようなのでやって来たバスに乗る。

 

札幌に住む息子に札幌に来ていることは言ってあったので電話をすると、「これから小樽迄行くが、どこに行けばよいか」と言うので、「北一硝子の近くの森本倉庫の運河の前だ」と言うと、積丹は遠いから神居岬まで送るから、そこで絵を描いて待っていてくれ、と言われて絵を一枚描く。ちょうど画き終わった時に来てくれた。

 孫もジイジイと一緒に絵を描く、と言ってついてきたらしい。車で二時間ほどかかった。お昼にしようということで、何にするかと聞くと「ウニ丼」と遠慮無く言う。近くに料亭があり「うに丼」は3000円もする。高すぎる。隣の食堂にいくと1500円ぐらいだが,今は無いと言われる。そこで「いくら丼」を食べる。

その後、積丹ユースホステルに連れて行ってもらったが、誰も居らず手紙が置いてあって,「荷物を置いてどこか散歩をしてくれ」と書いてあった。そこで息子の車で神居岬に先に行くことにした。

 岬の入り口で、「今日は灯台修理記念のため灯台見学が出来ます」と気象庁の職員が愛想よく迎えてくれたが、灯台の上に上がると、「あと10分で締めます」と言われた。「ちょっと待ってくれ、絵を描くために来たのだ」と言って二枚のスケッチを描く。

下に降りて神居岬の先端でローソク岩を孫と一緒に描く。

孫も画家のような格好でパレットを握って描いている。かわいいものだ。そして30分かけて入り口まで戻り息子にユースまで送ってもらってそこで別かれた。

 ところがユースのオーナ(中年女性)ーが「今日は数日ぶりで夕日がきれいかもしれない。これからアシスタントと写真をとりに行くが一緒に行くか」と言う。私に似て行動的なオーナーだ。本当は昨晩寝ておらず朝早くから天狗山に登ったのでしんどかったが、せっかくなので連れて行ってもらう。オーナーはユースのホームページに夕日を撮った写真を刻々と載せているらしい。今日は灯台開きで中に入れてもらった、と言うと、何度も悔しがっていた。前から分かっていたが今日とは知らなかったらしい。夕日を追ってもう一度岬の先まで行く。きれいな夕日だ。全国を見たわけではないが、日本一と言っても良いだろう。

ユースのオーナーは料理がうまい。ご主人は漁師で、ホッケ漁は奥さんも船に乗ったらしい。出された料理もホッケと山菜が主だ。それを食べる前に190センチほどの男前のアシスタントが料理の内容を説明してくれる。これはルイベ(鮭のさしみ)、甘エビ、ホッケのてんぷら、鮭のさつま揚げ、と。美味しいのでおひつの米を一粒も無くさずに食べる。蕨も塩漬けにしているそうだがおいしい。昼に覗いた料亭の磯料理より、こっちの方がはるかに豪勢だ。そもそもいくら丼やウニ丼などは料理と言うほどの物ではない。

ご主人は三年前に亡くなったそうだがオ―ナーの笑い声は豪快で、少しも暗さや寂しさを感じさせない。元は角田旅館と言っており部屋はたくさんあるが,トイレが二階には無い。そのために中年が来てくれないと言っていた。

それにしても昔はたくさんの若者が来たようだ。置いてある写真を見ても全部二十年三十年前のものだ。そんな古色蒼然たる旅館だが女オーナーは毎晩パソコンのホームーぺを更新するほどパソコン好きである。それに反してアシスタントの若者は大声で昔の歌を歌っている。何かちぐはぐだ。

 

次の日は早く起きて,写真で見せてもらった西(さい)の河原に行くことにする。

以前は道が山で分断されていて行けない場所だったが今は車で行ける。

バスは行きと帰りの一日一本のみだ。おにぎりは前日作ってもらい,朝早く西の河原まで送ってもらう。

崖がいつ崩れてもおかしくないところなので気をつけてくれ、と何度も言われる。何かあった時にはどこに知らせたらよいかも真顔で聞かれた。

 海岸に降りると昆布が打ち上げられている。車なら持ち帰りたいほどだ。昨日の神居岬も遠くに見える。ここから西の河原ま崖の間を通って行くのだが、奇怪な形の岩が並んでいる。色が赤くて触るとボロボロとくずれる。西の河原と言われる場所に鯨の骨と漁船の残骸が転がっていた。石を積んだケルンもあちこちにあり高山植物の花が咲いている。。西の河原とは実にピッタリの名前だ。お堂がぽつんと一つだけあった。昆布を干すときなどに集会所として使うらしい。ここで絵を描いているとカラスがしつこく鳴く。おにぎりを食べていると直ぐ近くまできて隙があればダッシュして取ろうとする。石を投げて追いやって野糞をしていると本当にアホ―アホ―と鳴かれた。

 

海岸沿いに来た道を戻ると、上から崖がくずれてきそうで気味が悪い。山越えで戻ることにする。そこには「マムシに注意」と書いてある。急な心臓破りの丘をのぼる。上りきって下を眺めると崖に密生した蔦のような草が黄色く色づいて輝いていた。後で聞いたが、今が一番きれいな時らしい。これが北海道の紅葉というもので秋は二週間だけ、ということだ。木の葉は霜が降りるとばさっと全部落ちるらしい。バスは一日一台ないのでそれに合わせてバス停で待つ。通過する車に何度か手を挙げたがこんな年寄りを西の河原で乗せようとしないようだ。

 

こんなところにヒッチハイクする人が居ると思わないのかもしれない。ようやく来たバスで神居岬まで行き,次のバスで一駅乗らぬと余別にあるユースには戻れない。変な路線である。もっともユーズ引っ込んだところにあるのだ。

 

そのバスが二時間後なので昨日とは違う場所にある展望台に上がって絵を描く。ついにスケッチブックが無くなったので裏に描く。それにしても灯台まで30分もかかる尾根道をうまく表現するのは難しい。尾根の右側と左側がずれてきたりする。私が描いていると、このあたりまで来た観光客は灯台のある岬の突端がはるか先見えるので議論を始める。夫婦連れなら「これ以上行っても同じだ」と男性が言う。女性の方は「ここまで来たのだから灯台に行こう」と言う。女性の方が好奇心が強いのがよく分かる。若い二人連れだと手を取り合って何処までも一緒に行こうというのが多い。

翌朝は、晩ご飯の後で作ってもらったおにぎりを持ち、パソコン疲れで寝ているオバサンには無言で挨拶を送って、六時の始発で小樽経由で札幌に戻る。

 

 

札幌には9.50分についた。どこかでスケッチブックを買いたかったがまだどこも開いていない。

北大のポプラ並木見に行く。以前は「倒れる危険あり、入るな」と立て看板がしてあったが、今は「ポプラ並木」と書いたきれいな掲示板が出ている。道は雨に濡れて座れない。大きな植木鉢とビール運搬用のプラスチックケースを持ってきて植木鉢の上に坐り、ケースの上にスケッチブックを置いて描く。今はコスモスが咲いてきれいだ。

描き終わってから大學生協で600円の画用紙を買う。安いが、いつも使うコートマンとは厚さが違う。

 

バスで千歳空港経由で帰るつもりで、時間まで大通り公園で絵を描く。まだ紅葉はしていないが、秋を感じさせる。描き終わった時、大通り公園のテレビ塔の時計は8時30をさしていた。朝のこの時間に大阪に帰る客は少ないので格安料金なのだろう。

 

 

まだ時間があると思い道庁を描く。これも2月に雪の中で立って描いた場所だ。今回は正面から描いた。もう時間はない。今回は一日5枚のペースで20枚描いた。しかし、家に帰って見せると、家内も娘も大通り公園でバスを待つ30分で描いた絵が一番良いというのでがっくりくる。